原町商店街の歴史と
周辺のご案内
原町地区は宮城野区の南西部にあり、北部は丘陵地、南西部が宮城野原の平原。南東部が沖積平野で中央部北寄りを梅田川が東方に流れている地域です。
原町界隈が歴史上現れて来るのは、平安・奈良時代の瓦窯跡、「古今和歌集」「源氏物語」の枕詞「宮城野」「つつじの岡」などです。また、古代以来、東北地方を南北に走る幹線道路「東山道」の通過地区とも云われています。
江戸時代に入り、伊達政宗の仙台城築城に伴い、原町宿としての機能が高まり、道路の付け替えなどにより、東方(塩竃、蒲生)への幹線道路、物流の拠点となって行きました。特に御舟入堀、御舟曳堀が開削されると、原町本通り(苦竹村、南目村)は御米蔵(榴岡)との物流が盛んになり、明治時代に入ると苦竹村、南目村、小田原村(一部北六番丁を含む)が合併し、現在の原町となり、市街地を結ぶ流通基地とした商業地へと発展しました。これが現在の原町商店街となります。
善入院観音堂
今から約350年前(1651)の仙台藩伊達綱村の時代に選定された、仙台三十三観音十番札所である。建物は宝形造り、本瓦葺きの三間四方で柱が尽きだした木鼻部分の獅子頭、その精美な組み付けなど壮麗さは仙台唯一である。子年生まれの守護神で、俗に「原町千手観音」と称されている。仙台市登録有形文化財。
宮城郡役所跡
藩政時代に設置された南目村、苦竹村、小田原村3ヶ村の行政機関で「宮城郡国分南目御代官所」跡で、明治11年(1878)郡制施行に伴い「宮城郡役所」となったが、大正15年(1926)に郡制は廃止となり、仙台市に移管され授産所などとして使用された。現在は建物は無く、当時の面影として、樹齢三百年(推定)の松の木が残る。
大源横丁と奇縁二天石
原町本通りにはいくつかの「横町」がある。それぞれの旧家の名に因み付けられ「大源横町」はそのうちの一つ。明治38年、原町出身の大内屋呉服商(一番町)大内源太右衛門が屋敷地を提供し、清水沼から本通りへの貴重な通り道として通行が容易となった。その翌年「横町」の入り口西門に慈善事業として「たずぬる方」「おしうる方」と刻んだ石柱をたてた。現在、それは「奇縁二天石」と呼ばれている。
平田神社
慶長8年(1603)年仙台藩家臣、平田五郎政高が岩出山から仙台へ移る際、先祖の地・志田郡堤根(現大崎市堤根)からこの地に遷宮した。はじめ「稲荷神社」と称したが、正保年間(1644頃)平田明神と改称した。政高と狐にまつわる伝説があり、毎年4月24日には春祭りが行われる。
カッコウ公園
昭和38年(1963)仙台駅前広場から青葉通りに観光歓迎塔の設置(観光協会)「カッコウ」をあしらった時計塔で工芸指導所長 安部郁二氏の設計によるものであり、市の鳥「カッコウ」が指定されたきっかけとなった。駅前整備・道路拡張に伴い、昭和52年撤去。その後縁があって原町商工会が貰い受け、この地に設置(平成10年)「カッコウ公園」の名となる。
豊玉神社
嘉永2年(1963)加藤幸吉が奉祀る。明治7年(1874)加藤灌内によって創建。御祭神は豊玉昆売神(とよたまひめ)で綿津見神(海神)の娘。神武天皇の祖母神で安産や縁結びの神、航海・漁業の守護神・俗に「子育て神社」と称す。
原町苦竹のみちしるべ
嘉永6年(1853)に建てられたという道標(石)である。塩竃街道と八幡街道の十字路東南角にあり、高さ165、巾30cmの安山岩を用いている。四面に「西 御城下 二十六丁」「南 長町 宮城野にいてふ道」「北 塩か満 松島」「東 八幡八満ん 七は満」と刻まれている。仙台市有形文化財。
古民家・烏山米穀店
天保七年(1836)創業、藩政時代米街道といわれた街並みに17も軒を並べていた米穀商の一つ。その後の大火などで再建されたが、明治時代の典型的な商家造りを残している。土蔵造りで防火のためか、隣家面は大壁、軒高は低いが居住部は平屋でありながら二階建ての店舗と違わぬ高さでつくられている。